2012/12
日本の最初の女医 シーボルト・イネ君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 2]

日本女医第1号楠本稲の像(東京女子医大)

参考*シーボルトと弟子たち

医術開業試験
 江戸時代は士農工商の身分制度により、原則的には身分の異動は制限されていた。その中で、僧侶と医師は例外的な職業であり、幕府や諸藩の医師となると武士並に取り扱われることもあった。
 我が国の医学は中国から伝わった漢方が主流であったが、江戸後期からはオランダを通じて西洋医学を習う者が増え、彼らの医学は蘭方或いはオランダ医学と呼ばれた。漢方も蘭方も資格試験がある訳では無く、今風でいえば“市場主義”である。幕府にも諸藩にも侍医の認定制度があり、幕府では奥医師制度があった。
 シーボルト・イネは幕末に西洋医学を学んだ日本で最初の女医である。明治3年(1871)に東京築地で産科医院を開業した。


シーボルトの来日
 シーボルトはオランダ商館の医師として1823年に来日した。多くの商館医たちはオランダ通詞を通して西洋医学を紹介したが、シーボルトは際立って優秀であるとして、出島から外出してオランダ通詞の吉雄家と楢林家で患者を治療し、医学者たちに医学を教えることを許された。
 シーボルトの評判を聞きつけて長崎遊学する者が益々増えると、通詞の家での医学授業が手狭になった。そこで通詞たちや町年寄の高島秋帆が長崎奉行所に働きかけ、鳴滝の地に医学塾が設けられて、多くの蘭学医が誕生した。
 最初の塾頭は美馬順三(阿波)、その後、岡研介(周防)、高良斉(阿波)が続き、高野長英(水沢)、伊東玄朴(佐賀)、石井宗謙(美作)、伊藤圭介(尾張)、湊長安(陸奥)、二宮敬作(宇和島)など優れた蘭学医を輩出した。


シーボルト・イネの誕生
 シーボルトは出島滞在中に長崎丸山遊郭の遊女・其扇を愛妾とし、其扇は1827年に娘お稲を生んだ。5年間滞在して帰国する段になりシーボルトは、幕府禁制の日本地図などを所持していたことが発覚して1829年に国外追放、再入国禁止の処分を受けて帰国することになった。シーボルトは弟子の高良斉、二宮敬作にお瀧(其扇)とお稲の面倒を見てくれるよう依頼した。しかし、高良斉、二宮敬作の二人ともシーボルト事件に関連したと看做されて長崎追放となり、高良斉は徳島へ、二宮敬作も宇和島へ帰郷した。
 お瀧は商人時治郎と結婚し、お稲も寺子屋に通いながら丈夫に育っていった。当時、女の子は14、5歳になれば嫁入りし、学問など無用とされていたが、お稲は女の子ながら寺子屋で頭角を現した。母親お瀧の悩みはお稲が学問を続けたがっていることや、オランダ語を習い、オランダに帰った父に手紙を書きたがっていることだった。


お稲の医学修業
 宇和島藩は二宮敬作の西洋医学知識に注目しながらもシーボルト事件との係わりを恐れ、近郷卯之町(現在の西予市)で在野の医師として活動させた。敬作は患者の治療と共に弟子の教育にも力を入れていた。
 お瀧は宇和島の二宮敬作に、「アイノコだから嫁には行かぬ」というお稲について手紙で相談した。二宮敬作は学問好きなお稲を自分が教育するといって、宇和島で預かり医学修業をさせることとした。
 お稲は18歳から二宮敬作の家に寄宿し、医学修業、患者の治療、手術の手伝い、往診の同行など実地教育を受けた。外科医を専門とした敬作はお稲を4年間教育したが、産科医として育てようと、同じくシーボルト門人の石井宗謙の下で修業することを勧めた。
 こうして岡山の石井宗謙の元に3年間、産科学と産科医としての修業を積んで、女医として独り立ちできるほどになった。しかし色白で鼻筋の通った美人であったといわれるお稲は、師の石井宗謙に手ごめにされて妊娠し、女児高子を出産する。傷心で長崎に帰ったお稲は娘高子を母お瀧に預けて再び、宇和島の二宮敬作の元へ修行に向かう。


父シーボルトとの再会
 ペリー来航により開国した幕府はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダと和親条約を結び、シーボルトの再来日も可能となった。偉大なる医学者シーボルトが息子のアレキサンデルを伴って1859年に長崎にやってきて、お瀧、お稲親子と再会した。
 シーボルトはオランダ帰国後は博物学者、日本研究者としての道を歩き、医学からは遠ざかっていた。シーボルトの紹介でお稲は長崎医学伝習所(その後の長崎医学校)でポンペやボードウィンから直接西洋医学の講義を受けた。
 明治維新で長崎の状況も大きく変化したため、お稲は明治3年に東京に転居し、築地に産科医院を開業した。これを支援したのがシーボルトの息子でイギリス公使館通訳のアレキサンデルであり、お稲とは異母姉弟である。もう一人の支援者は石井宗謙の息子石井信義で、東京医学校教授であった。彼はお稲の娘高子と異母兄妹であった。
 お稲の女医産科医院はやがて評判となり、女性の自立を促す福沢諭吉の推挙により、お稲は宮内庁御用掛となり、明治天皇の息女の出生に立ち会った。お稲は西洋の産科学を学んだ日本で最初の女医であった。
 明治8年(1876)、西洋医学に基づく医術開業試験制度が制定されて物理、化学、生理学などの基礎的学科を含め10科目の試験が科せられるようになった。試験に合格しないと医師の資格を得られない。これに対し漢方医が猛烈に反発し、25歳以上でそれ以前に医師を開業している者には医師免許を発行して医業を続けることができることとなった。
 しかし48歳となったお稲は自分の医学知識は既に時代遅れになっていることを感じ取り、築地の医院を閉じて長崎に帰ると以後、医師としての活動は停止した。


伊予の蘭学
 幕末の蘭学者は長崎、江戸、大坂、京都に集まっていた。筆者は地方都市では津山の蘭学が特異な存在と思っていたが、シーボルト・イネを育てた宇和島を含む伊予の蘭学も特異地の一つと云えそうだ。宇和島藩主伊達宗城が海外事情に好奇心の強い大名で、蘭学者を優遇したこともあるだろう。
 伊達宗城は蛮社の獄で幕府から指名手配されている高野長英を匿い、蘭学書の翻訳をさせ、緒方洪庵の塾で学んだ周防の村田蔵六(後の大村益次郎)を呼び寄せてオランダ語の稽古所を開設、藩医にも蘭方医を採用し、西洋砲台や蒸気船の建造も早くから進めた。
 二宮敬作は藩医ではないが藩のお墨付きの蘭学医であり、甥の三瀬周三は二宮敬作、村田蔵六に医学とオランダ語を学び、再来日したシーボルトの息子アレキサンデルに日本語を教えたり、シーボルトの信頼を得て通訳として江戸に同行するほどの蘭学医であった。
 三瀬周三はお稲の娘楠本高子と結婚し、維新政府では大坂医学校兼病院の設立に関わり教官を務め、東京医学校では教授を務めた。独立心の強い母お稲の娘高子は女医にはならなかった。子供のころから琴の名手で、夫に先立たれたのちは生田流、山田流の教授として自立の道を歩んだといわれている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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